挨拶アーカイブ

2012/01/01

JOJO

  新年明けまして
おめでとう御座います。  

AD.2012

 

今年こそ?良い年に!  ■

 

2012年明けましておめでとうございます。

  

昨年は、東日本大震災を筆頭に世界中で自然災害が多発し多大な被災をもたらしましたが、被災者の支援に世界中の人々の善意の”絆”が如何なく発揮された年でもありました。

 

私どもも、所属の業界団体、3商工会、ロータリークラブ等々
と連携した多くの義援活動して参りましたが、特に主体的活動として、沖縄県知事公室防災危機管理課内の「被災者受入対策チーム」の要望に対応した、県内受け入れ被災者に「ママチャリを送ろう!」の募金、支援活動をして参りました

 

今年も各奉仕団体に同調しながら”持続的で、有用な支援活動”に取り組みたいと存じます。

 

残念ながら人的災害の「福島原発事故」は危機管理に対する企業の欺瞞が問われてますが、逆に反面教師として脱原発の機運が高まるのは地球環境にとって良い方向と云えます。

 

 

 

沖縄は、普天間飛行場移設先で国と対峙していますが、これほど問題になったのかと憂慮している一人であります。

 

時は1992年、”普天間飛行場はいつでも返還出来る”との情報がホワイトハウスの或る軍事ロビストから入り、宜野湾市当局に返還跡地利用計画として、4年分の調査計画予算立てするよう提案。

 

◆当時は嘉手納飛行場返還が県民大多数の関心事(人間の鎖の実施)であったが、

 

◆従来の“反戦平和、米軍反対”イデオロギーから“都市計画の発展阻害
要因
普天間は危険“の返還要望のキャッチフレーズ転換を提案

 

そして、1996年に普天間飛行場返還の“日米合意”が橋本総理、太田県知事により発表。当時は県民には”寝耳に水”の感であったが、いつの間にか人間の鎖は普天間に移ったのである。そもそも辺野古に移設は15年供用の限定条件付きながら地元は受け入れ容認していた筈であり、本来なら既に普天間は移設していて、今頃は辺野古から県外等移設論争している筈である。

 

那覇軍港の移設が20年近く小康状態であり、牧港ハウジング(現おもろまち)も返還後20年間跡地利用が実施出来ない時代であったが、普天間飛行場は”移設条件付き”ながら早期に決着できるものと思われたのである。

 

最近の県外、国外移転の声は少しイデオロギー的な感もあり、普天間の早期危険除去の論議が16年間ないがしろにされているのは残念である。

 

こうした膠着状態を脱却するには、建設的なプロジェクトチームを結成し、具体策を検討提案されるのを望むものであります。

 

弊社JOJOは、例年のごとく創意工夫・研鑽して、社会に貢献できるよう努力して参ります。

 

この1年が、皆様にとって、良い年になりますように祈念致します。